当寺ホームページをご覧いただきありがとうございます。
住職の髙橋 賢靖です。
開山以来1200年の歴史と伝統を継承しながら
「開かれた身近なお寺、来てよかったと思っていただけるお寺」を目指して努めております。
仏事に限らずご気軽にご来寺頂き、御本尊に手を合わせ、仏縁を大切にし、
皆様がより良く生きるためのお手伝いの一助を担えましたらと思います。
合掌
当寺は天台宗に属し、奈良時代の神護慶雲元年(767年)に
この年号を用いて、正式名称は「
南北朝時代にあたる康永4年(1345年)2月4日に遷化した僧「覚明」を中興開山と伝えられています。
覚明という僧侶は新田義貞公に仕え、四天王の一人と言われた武将で篠塚伊賀守とも栗生左衛門顕友とも言われています。福井県であった「藤島の戦い」で敗れ、その際新田義貞の首を持ち帰り、この寺の鬼門にあたり、北東1キロの距離にある新田塚に首を埋め、剃髪し僧となって寳禅寺において菩提を弔ったと伝えられています。
その後、寺は衰退に及びましたが江戸時代の宝暦12年11月(1762年)権大僧正 全海(徳川家康に仕えた天海の兄弟子にあたる)によって再建されました。しかし、この建物も明治21年3月14日の類焼で本尊阿弥陀如来像と過去帳以外は焼失してしまいました。明治32年に本堂・庫裡が再建され桂萱小学校や村会議所として使われました。昭和55年12月に現在の本堂が建てられました。
なお、日露戦争の凱旋記念に植えられた吉野桜が、樹齢110年となりましたが、毎年花を咲かせています。
薬師三尊が祀られていて、御本尊は勝道上人が彫られた仏像と言われています。
現存の建物は明治時代に前橋城で使われていた材料を使用して建てられています。
破風の所に漆喰で鶴と亀が描かれています。また堂内の格天井には前橋藩お抱え絵師の森霞厳が描いたといわれる一枚の大きさが畳半畳分もある28枚の花鳥図が色鮮やかに残っています。
明治の神仏分離令は出されましたが、目の病気を治してくれる「仏神様」と言われ信仰されています。
この板碑は、死者の追善のために建立された供養板碑です。
材質は、安山岩で上部には山形に削った上に額型の枠組みを施しているので異形板碑と言われています。
表の中央部に胎蔵界大日如来の梵字が研彫され、その下に南北朝時代の年号で康永第4暦(1345年)乙酉2月吉日記年と右に庵主、左に寳禅寺 中興開山の覚明の名前が刻まれています。
高さ1m62cm、幅57cm、厚さ42cmと昔の板碑よりも厚みと高さがあるため、異形板碑と言われています。
なお、この碑は明治の本堂消失の火災の際の熱により斜めにひびが入ってしまいましたが、建立よりその場から動かすこともなく、一部は地中に埋まったままです。
古くは現在の場所より300mほど南の字古仏神と称されて場所にありましたが、土地改良事業のため、現在は仏神堂の左わきに移動となり、祀られています。
伝説には、石に寄りかかって目の不自由な旅の僧がうたた寝をしていると、その石が2つに割れて中から金の仏像が現れ、さらには目も治って見えるようになったことから、勝道上人が彫ったと伝わる薬師如来の体内仏として納めました。それ以来、目の病気を治してくれる仏様と言われています。
実際に、石の真ん中に、真っ二つに割れたように縦に割れ目が入っています。
この地より北西4キロの所に「岩神」という地名にある(NHKのブラタモリ前橋で紹介された)国指定天然記念物の「岩神の飛び石」があり、2万4千年前の浅間山の噴火によって噴出された岩が泥流により運ばれたと証明されています。当寺の赤石も同じような成分で出来ていて、よく形状が似ているため、「兄弟石」と言われています。
お釈迦様の足跡を印したものです。
お釈迦様がお亡くなりになった後、現在の仏像が造られる以前は、お釈迦様の足跡をお釈迦様として礼拝してきました。この仏足跡はスリランカのお坊さんが銅板に一つずつ刻印し作られ、スリランカから船で運ばれて当寺に奉納されたものです。
直接触れて頂くことで足腰を守り、健康また子供たちの足の発育にも大変ご利益があると言われています。
不定期に行っております。